表千家の茶の湯のお稽古へ通い、20年になっていました。
貪欲になんでも吸収したい!という姿勢で稽古を続けて来れたのかと言われると、先生からは「若い人はいつでも学べると思うから欲がないのよね、私もそうだったの。」と言われてしまうくらいで…気づけば20年。ちなみに先生からすると20代も50代も若い人である。
長年続けているとお許しだけは勧めて頂けて、盆天までの許状と講師の資格も戴いていた。そのお許しに相応しい心構えや態度、技術が身についているのか甚だ疑問ではあるけれど「若いうちには特に、自分に何ができるのかを客観的に示せるものはあったほうがいい」という先生のお考えに甘えているのが現状です。
最初の数年はなんでも目新しく新鮮で、そのうち「このお道具、前にも見たことある!」と気づけるようになり、そろそろあのお道具と再会しそれに沿ったお点前をする季節かな?と思えたり。
「この道具組の中であれだけ違うように見えるけど、何か特別な計らいがあるのかな?」と、たまに気付けるときはとても嬉しい。
毎回変わる季節の主菓子も大きな楽しみのひとつで、お稽古に通うモチベーションにもなっていた。
同じお道具との再会は、多くが1年に一度。
干支の絵柄のお道具などは12年に一度しか会えない。
茶碗だけを見ても、暑い夏には平茶碗で涼しさを演出し、寒さ厳しい冬には熱さを逃しにくい筒茶碗を用意したりと、すべては美味しく抹茶を召し上がって頂くための気遣いであり、工夫である。
とは言っても私にとっての一番の魅力は、茶の湯はとても合理的で理屈が通っていて、その中に美しさを求めるコミュニケーション手段だということです。私の解釈ですが。
作法も「なんでこんなことするのだろう?」と初めは謎ばかりでしたが、こういう解釈があるからこうする必要があるのだな!と後々気づけたり、調べてわかったり。「それなら、この場合はこうするのかな?…」と予想したり、筋が通っているのを読み解くのも面白い。
ただ、その答えが数学のように「ズバリこれ!」というものが、すぐにわからないことがあり、おそらくこういうことかな?(仮)と、自分で納得する答えを探すことの方が多いのだけど…
最近茶の湯を習い始めた友人が、「稽古の時間は”心身を整える時間”になっている」と話してくれました。
“お茶は自然と呼吸を心身を整えることができ、茶室は不思議と無心となることができ、心身が整うのだと感じています。”と。
その言葉に私もすっと納得しました。
毎回の稽古が終わった後の楽しさや達成感、それらと共にある清々しさは、セラピーを受けた後のようなもの?と思いました。
映画の『日々是好日』から伝わるお稽古事としての茶の湯の魅了に「そうそうこれ!」と嬉しくなりました。私はそれを随分薄めたくらいですが、それでも十分楽しめています。
娘の出産を機に初めて長期間稽古通いをお休みし、コロナ禍で結局2年ぶりの復帰となりました。年代もバラバラな同じ社中のお仲間が「おかえり!」と迎えてくれたのもとても嬉しかったです。まずは伺う頻度も前より少なく始めます。焦らずゆっくり、これからも細く長く続けていこうと思います。